うたかたの夢 〜バス釣りエキスパートを目指して

最初の1匹

高校入学した夏。家族でよく釣りに出かけた琵琶湖の湖畔に、セカンドハウス(掘建小屋デス…)を親父が購入。近所には駄菓子屋みたいなパン屋しかなく、そこには当時釣れ始めたバス釣り用の簡単な道具が売っていた。面白半分で、どの仕掛けがいいか?と店の婆さんに聞いて、ジグヘッドとゲーリーグラブを購入。ちょい投げ用の安売りロッドが家にあったので、それに結んで琵琶湖に投入。ただ巻きしてたらいきなり釣れた。

こんなもんで釣れる淡水魚がいるのか⁈

何匹か釣って、あまりの簡単さにそのままのめり込むことなく、何年かが過ぎた。

大学生になり、ゼミの仲間となにかと遊びの話で盛り上がっていたら、バス釣りの話題になった。昔、琵琶湖で簡単に釣れたぞ〜、などと言っていると、友人達がバス釣りをしていた関東付近では渋くて中々釣れなかったらしい。じゃあ、釣ってみせろ、ということになって、仙台だったのだが、サイカチ沼という(斎勝)小さな農業用ダムに出かけた。釣り竿は、当時釣具屋に2980円で売っていたスピニングロッドと、やはりカゴ売りで格安で入手したリール。ジグヘットとスプリットリグ道具を買って、総額4000円くらいだったか。貧乏学生には手痛い出費だったが、とにかく釣りに出かけた。

イカチ沼は、ダムサイトと葦しげるシャローが混在する、小規模だけど面白いフィールドだった。でもなんか生命感が乏しく、豊かな感じではない。そりゃ、琵琶湖に慣れ親しんだ身としては、スケールの何も大違いのフィールドだった。

立木の間から、沖にまばらに生えている葦の付近にダイレクトにスプリットを投入。そんなど真ん中に入れたら根がかるぞー、などとからかわれたが、第一投で25センチ位の子バスを仕留めた。その後、25センチの子バスは、北国仙台ではそこそこサイズで、富士五湖のトーナメントでもキーパーが25センチ以上、であることを知る。

そんなこんなで、暇つぶしに通い始めたサイカチ沼で、梅雨明け頃の7月初旬、ドラマが…。

 

少しづつ増えたタックル

バス用プラグは魅力的だった。バイブやクランク、ポッパー、ペンシルベイトなど、特にへドンやマイケルと言った、なんとも駄菓子屋チックな安っぽいけど味のあるペイントのプラグを、仕送りのたびに少しづつ買って、タックルボックスがそれなりに賑やかになっていた。

その日は、アフタースポーンの影響か、朝から誰にもあたりが出ず、何も起きない時間が延々と続いていた。

オイラは買ったプラグを使ってみたくて、取っ替え引っ替え試していた。水面に覆いかぶさった枝の下にポッパーを入れ、落ちてきた虫のようにピクピク波紋を出していると、ゴボ、っときた。フッキングはしなかったが、トップで初めて反応を出せた。今で言う、虫パターン。名前つけりゃ、ありがたがって真似するが、そんなもんは田舎者の狩猟本能でピンと来るだろが、的な釣りである。

そうこうして、夕まづめ。

オイラはお気に入りのスライダーワーム4‘のスプリットリグに持ち替えた。当時のオイラの鉄板リグである。

普段釣れたことのない、小さなコンクリ橋のたもとで、安っぽいが魅力的な動きをするスライダーワームを、マッディウォーターの表層で、泳ぎ方が見える深さでくねらせていた。

すると、鯉くらい大きな影がスーっと近寄りバックリワームをくわえて反転した。反射的に合わせを入れたらフッキングした。味わったことのない重量感に、腰が抜けて座り込んでしまった。足がガクガク震える。心臓ばくばく。横で見てたら、図らずも大物を掛け、腰を抜かして必死で釣ってる滑稽な青年であったに違いない。

なんとか岸にズル上げし、サイカチレコードの50センチを上げた。

琵琶湖なら60、70に匹敵する快挙のはずだ。今も当時の古ぼけた写真が残っている。完全にバスワールドに引きずり込まれた瞬間だった。

 

その後は

バイト代はほぼバスタックルにつぎ込んだ。

とは言っても、ワームケースと小型タックルボックス1つで十分事足りる量だったが、スピニングとベイトタックル、いずれも汎用品を手に入れて、大事に使っていた。当時の高級ロッドといえば、フェンウィックなど。店で触っても、オイラの安物ロッドと違いがわからなかったなあ。

帰省の道すがら、富士五湖霞ヶ浦、北浦、利根川水系、琵琶湖、池原ダムなどに進出。

特に北浦では、50本近くの入れ食いを体験。全て30〜35センチだったが、嫌という程霞水系のトルクフルなバスを味わった。富士五湖では、琵琶湖や霞からのバス移入前だったので、25センチクラスばっかり。釣り三昧の生活を送った。

その頃のお手製改造リグで馬鹿釣れしたのが、チューブベイトにゲーリーグラブのツインテールのしっぽの部分を切って中に押し込んで、サイドに開けたスリットからテールを引き出して、太陽の塔のような形状にする。チューブの中にジグヘッドを押し込んで、アイだけ貫通させて外に出す。これをフリーフォールさせると、何とも艶めかしく手を振りながらゆっくり沈んでいく。落とし込みの釣りだ。ひったくるようにバスが食ってくる。琵琶湖大橋のたもとで、散々釣り倒した岡本太郎ジグを思い出した。チューブは黒に銀ラメのツートン3インチ。これ以外は釣れなかった。

 

就職

3kの代表格である土建屋に入社したオイラは、月何度かの日曜日には、蒲田の寮から始発の京浜東北線で上野に出て、常磐線で土浦通いをした。当時、まだ車が買えず、電車駅から釣り場に歩ける釣り場が、そこしか見つけられなかったからだ。マルトボートという舟宿が桜橋にあって、土浦駅から徒歩で20分ほどで着く。7時にボートを借りて、5時頃まで水上に出る。最初は手漕ぎを借りていた。1日3500円だったか。その頃にはタックルも増え、竿は3本くらいを使い分けていた。重めのベイトタックル、軽めのベイトタックル、スピニングの3本。

ポイント全てが魅力的だった。

ここは、というポイントでは、かなりの確率で釣れた。

そのうち、インビジブルポイントも見出し、航路上のごろた底や沈みケーソンなどを、魚探なしで探り当て、釣った。オイラのアンテナはヘビキャロだった。底ズルでとにかく地形変化を捉える。三角法で場所を覚える。全てが楽しかった。日常のストレスを、丸一日忘れられた。当時の必携品は、ラジオだった。ラジオを聴きながら、一日中キャストを繰り返した。

 

危機一髪

ある日、午後から急に風が強まった。霞水系は大抵、午後吹く。その日は何時もと違い、どんどん風が強まった。浅い湖では、岸からの波の反射で三角波が強まる。手漕ぎのオイラの船は、木っ端のように暴れて収まらない。なんとか一番近い岸にパドリングするが、風に負けて進まない。流石に焦った。建設会社社員、釣り中に転覆し水死⁈の記事が目に浮かぶ。

やむなく、風下の岸まで延々と漕ぎ続け、何とか上陸を果たす。まだ携帯がカバンくらい大きかった時代である。とにかく公衆電話を探し(霞の付近に滅多に電話など無いのである)、ボート屋に電話。主人が迷惑がるかと思いきや、よく岸に付けた、これから迎えに行く、とエンジン船で迎えにきてくれた。品の無い黄色のマルトボートは沖からも視認できたらしく、風下の護岸、としか伝えられなかったのに、程なく発見してくれた。主人からは、2馬力なら免許いらねえから、今度からそれ借りな、と諭され、以降7000円の出費となる。

 

そうこうしているうちに

わずかな貯金をはたいて車を購入した。活動範囲が格段に広がる。休みのたびに、霞だ、北浦だ、利根川水系だ、富士五湖だ、と飛び回った。

ボーナスなど手に入った日には、速攻で釣具屋である。憧れの道具が買える。1番に高額な買い物をしたのが、絶対に欲しかった魚探とエレキだ。

竿は相変わらず汎用品。その時でも高級ロッドと汎用品の有意差が理解できなかったし、汎用ロッドで十分成果を上げていた。

そして、オイラにとって最大の衝撃が訪れる。

クリアウォーターのリザーバーでのこと。船の影が底にくっきり映るほどのクリアウォーター。スタンプエリアで、ラバジ&ポークで大物狙いをしていたら、50アップがふ、っと現れジグをくわえた。その瞬間、ペーっと吐き出した。ブラシもつけてないし、ポイントはキンキンに研いだフックが、なんの抵抗もなく吐き出された。竿に何も感じない。えー、これじゃあ50アップなんて釣れんがな!

唯一の生命感というか、あたりというか、サイトなんだけど、その日はこれでおしまい。この一本を取れるか取れないかで、全然違う。

オイラのバス釣りは迷宮に入った。

 

情報集め

釣具屋や雑誌、船宿で情報をあさった。当時はインターネットなど無いので、口コミが勝負だった。そこで一番影響を受けたのが、今江克隆プロだった。プロ目線、情報の鬼、努力の天才、発想の豊かさ、とにかくハマった。竿感度についていち早く着目し、氏の竿はちょいと間違うとポッキンするポッキーロッドと言われていた。それくらい竿感度にこだわっていた。ウェイトレスフィールと彼は言った。ジグやスピべの重さが一瞬消える瞬間に合わせる釣り。電撃合わせ、と言われていた。

エバーグリーンの竿を購入することにしたが、なにせ一本4万円以上する高額ロッドだった。少しづつ買い足した。

そして、スピナーベイトまではブレードの回転が一瞬乱れる瞬間にフッキングできるようになり、面白いように釣果が伸びた。気がついていなかったのね〜、今まで。

今江プロは、キッカーイータなどのロングビルミノーでトーナメントに勝ち、ピークを迎えていく。当時はエバグリのプラグ、全然手に入らなかったなあ。都内は激戦なので、千葉や水戸までプラグ買いに行ったっけなー。

 

いよいよチャプター参戦

NBCチャプター山中湖に参戦を決めた。馴染みになった山中湖の借し舟屋が、チャプター出るなら船の年間予約してくれる、と言ってくれた。その頃には船舶免許を持っていたので、毎度30馬力のミニバスボートを借りていた。山中湖のようなディープレイクでは、魚探が必須。エレキも自前。それでも船代は一回15000円だった。自分なりのポイント図まで作り、山立てして場所を覚えた。

デッドスローなプラッギングや、スピべ電撃や、ウィードフォールグラブや、鉄板技をいくつか身につけていた。船宿ではそこそこの釣果を毎度上げていた。少々天狗になっていた。

ところが、なのだ。

チャプターでは、ほぼゲキ渋の状況になる。著名なポイントは、必ず人が入る。ママの森前ディープのシークレットポイントでさえ、何人か同じ釣りをする奴がいる。プレッシャーに、魚が口を使わない。そんな中、そこそこキーパーをリミットメイクし、それなりに期待してウェイインするのだが、毎度100位を突破出来ない。僅差なのだが、分厚い壁。トップは超大型を1〜2本入れてダントツになるが、それ以外は団子状態。それでも上位常連というのが必ずいる。オイラは、どんなに頑張っても100位。

天狗の鼻がへし折れた。

 

トーナメンターとは

山中湖などの地方チャプターでこのレベルだ。JBトップクラスは、毎度プレッシャーの中、凄まじい状況下で結果を出してくる。ポイントも釣り方も、引き出しの数と深さが段違いなんだろう。鉄板の釣り方なんて、絶対に口外しない。

釣れない土浦で、何とか魚を引きずり出す、延々カチカチシェイクも、すでにトーナメントでは常套手段。ビーズを仕込んだテキサスリグで、ここぞ、のポイントで10分近く延々とシェイクすると、怒り狂ったバスが殺しにくる。40センチクラスでも、信じられないくらいガツーンと当たりが出る。嚙み殺しなのでフッキングは電撃即合わせしないと離される。10分もシェイクしながら、いつ出るかわからないあたりを待って、電撃で合わせる。反射神経釣りだ。

トップクラスの底知れない努力の結果を見て、リーマンの自分には、趣味としての釣り以外に選択肢はないことを悟る。身の丈を知る。

 

苦しかった

どんな状況でもそこそこ釣る、という強迫観念を無くすと、釣りが楽になった。これでいいんじゃ無いか。プロにでもなろうとしていたの?若気の至りとはよく言ったもので、何にも考えていなかった。プロになるなら、仕事辞めて必死で努力する必要があったろう。釣り具を買うためにリーマンやって、週末釣行だけでトーナメントでは戦えない。そんな当たり前の現実に気づくのに、随分金と時間を使ってしまった。

 

その後は

仕事仲間に誘われて、タイのコマセやフカセ、ショアジグヘッド、テンヤなどに手を出した。

食えるのが楽しい。ウマヅラハギはカワハギよりキモがでかく、十分に美味い。伊豆では道端で自生しているワサビで刺身を食った。最高に美味い。イサキは釣り過ぎて、冷凍庫が2ヶ月閉鎖状態になった。ヒラメもやった。当時は1日1〜2枚しか釣れなかったが、最近は竿かしらが二桁釣ったりする。イナダは船同士、客同士が殺気立ってて気分が悪かった。カットウフグはだまし討ちの漁のようで好きになれなかった。テンヤはほぼ自作。ミノーをハンドメイド出来るほどになっていたので、テンヤなどにわけなかった。一個買えば造り方がわかった。ところが、テンヤが急にブームになり、予約が取れなくなり、船が混み、5号シバリなどの宿が増え、客の釣果などどうでもよくなった船が増え、アホらしくなって辞めていた。もう、釣りには楽しさ以外求めないのだ。そう決めたのだ。

 

ある日

真澄丸という船宿を知る。テンヤで嫌な思いを何度かするようになって、なんかいい船宿無いかなあ、などとネットサーフしていたらヒットした。すぐ電話したら、あの素敵な女将さんが、いいから一度おいで、という。でもって行ってみたら、すっかりハマってしまった。門人メンバーが何人か乗っていたのだけれど、船長以外にも優しく教えてくれる方がいた。釣れるとみんなが自分のことのように喜んでくれた。気が合わないと、次から来なくていい、と言い出す気難しい船長、と言う論評もあったが、杞憂だった。そこから、釣りといえば真澄丸にしか行かなくなっていった。

 

あの日が来た

2011年3月11日。オイラの人生観が変わった。それ以外にも、海への恐怖が生まれた。現地に飛んで、あまりの悲惨な状況を目の当たりにして、海で遊ぶ動機を完全に見失った。そこからは、オイラの震災後社会への貢献策の一つであるミッションに、必死に取り組んだ。釣りのつの字も頭に浮かばない日々が続いた。

それから8年。

ようやく一通りの成果らしい結果に結びついて、少し気がほぐれた。そういえば、釣り行って無いなあ、船長は元気だろうか…。

ふと会社帰りにそんな気分になって、真澄さんにメールをしてみた。とにかく歓迎するから、また来なさい、と。啓ちゃんも早速ラインへ招待してくれたり、とにかく行こう、と言ってくれた。

こんな船宿や仲間には、そうは会えないんだろうなあ、と感慨ひときわだ。